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気倦(けだ)るいものの
家の右手の林を抜けるとすぐ海ぎわで、崖縁の小路をつたってゆくと一面にまだ黄ばんだままの草地で蔽(おお)われた広い突鼻(とっぱな)がある。ひる間、僕は何度もそこへ寝っころがりに行った。草地は厚くて日に温(ぬく)もっていて、いつのまにか身体じゅうがぼうとなってくる。海からの風がたえ間なく顔の上を吹いて通る。耳のすぐ傍で虫の羽音がする。海の上には何もない。むやみと広いばかりでいつまでたってもそこには何も起きない。僕は自分をどっかへ置き忘れてしまったような気になる。何かあったのだ、何か起ったのだ。僕は思いだそうとしてみる。だが、ちっとも僕のところへはやってこようとしない。僕には遠い不快な記憶のようなものがあり、それと今の僕との間にはある断絶がある。ふいに鋭い皮肉な心持が湧き上る。あれはあれで、これはこれだ。どれもたしかなものはない。どこにもたしかなものはない。あったらお目にかかろう。僕は何にでも身を任かせる気になる。そして鈍い気倦(けだ)るいものの中に身を包まれてしまう。が、またもやふいに予知しない原因のわからない鋭い痛みが胸をつき上げてくる。どこから、なぜ。そして次の瞬間にはわかってくる。妻、子、友人、仕事、生活というやつ。自分というもの。そういうものをおれはみんな信じない。何かがおれからそれを信ずる力を抜きとってしまったのだ。そいつに訊いてくれ。――僕はこういう種類のことを次々と胸の中で呟(つぶ)やく。
 だが、もう永くは本気でいない。僕はどの嘘も見抜いているのだ。僕の今信じているのはこの気倦るい空気だけだ。
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ふ〜
疲れた
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細かったり
 僕はすっかり疲れて、これから先き自分がどうなるだろうということさえ考える力を失っていた。僕はただ待っていた。何かやってくるだろうと。それが何だろうと、今までしかたがなかったと同じように、そいつに身を任かせるよりない。
 新しい場所に移ってから天気は徐々に定まった。毎日温かい日がつづいた。もうどこを見てもいっぱいの若葉だった。僕のいるところは原地農場という、牛を七八頭飼っていて、バタをつくっている。家の前面は広い耕地(こうち)だ。耕地全体をとりまくようにして、家の裏から左手へ、それからずっと前方までゆるやかな傾斜面が盛り上っているが、そこらじゅうの榛(はん)の木の若葉は何という美しい奴だろう。日に輝き、揺れ、絶えず小さいさやぐ音をたてている。それは何かしら僕の心を吸いこんでしまうやつだ。それに白と黒の斑牛(まだらうし)、こいつはどうしていつまでもこう動かずにいるんだろう。その鮮(あざや)かな背はどんなに遠くにいても、どんなに林の中からちょっぴり見えただけでも眼につかないということはない。いつまでもいつまでもじっとして草を喰っている。
 あたりには散歩するところがたくさんあった。同じ島の中でも、神着とこことでは何というちがいだろう。明い。そして何もない。家の左手の傾斜地を左へ上って行くと、高台のようになった広い平地があるが、そして大部分は耕地で、ところどころには鍬を入れている人影が見えるが、それは何だかあたりの雰囲気にのみこまれて、働いているというより、ただそこにいる人という感じで、ゆっくりと動いている。耕地もそうで、それはつい昨日耕地というものになったような、素人くさい様子をしている。林もそうだ。それはちょろちょろと細かったり、ただ伸びられるだけ伸びるとでもいうように、むやみと真すぐに立っていたりしているが、それでいて生き生きしている。
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僕もそれを
 と僕の方をむいて、また
「だいたいお前さんも変った人だよ」
 娘はしばらく黙っていた。それからふいに、
「あアあ、私なんだかちっともわからない」
 と言った。そのときの娘の眼にはある閃(ひら)めきがあり、どっかに猫イラズを前にした時の彼女の姿が感じられた。
 翌朝出発する前に、娘さんは搾(しぼ)りたての牛乳をわざわざ持ってきてくれた。
 僕と「タイメイ」さんとはその日途中の坪田村で一泊し、ぐるりと島を一まわりして神着村にかえった。

 それから間もなく、僕は阿古村の中だが部落からさらに一里ほど西南方の、あたりにはほとんど人家のない農場へ移った。島めぐりのときにその場所を見つけたのだ。檜垣は僕を神着村にひきとめておきたいらしく、いろいろ部屋の都合など聞き合わせてくれたが僕はとうとう我がままをとおして阿古村へ行った。一つには今度の場所が気に入ったのでもあるが、神着には檜垣をはじめ知り合いもだいぶできたし、僕は自分の孤独を邪魔されるのを恐れたのだ。檜垣には何も言わずにおいた。僕は自分でも説明のできない誰にも言いたくない心の状態にいた。いろいろ人に訊かれたり、檜垣にも訊かれたりして、眠れない病気だと言って片づけた。事実そのとおりで、他人にはそのほかに言うことはない。だが、僕の内部ではそれではすまなかった。病気はよくなったり悪くなったりして二年近くつづいていた。峠は越したように思われたし、僕もそれを望んでいたが、しかしそれはわからない。嫌やな嫌やな奴だ。それは人間の顔をしている時もあるし、千人くらいを一つにした形容のできない厖大(ぼうだい)な顔のときもある。いちばん僕を苦しめたのは、これまで僕に親しく見慣れてもい、明瞭であったこと、物、すべてが確実でなくなり、ぼやけ、信じていい境と信じなくてもいい境とがいっしょくたになり、夢と覚めているときとの感覚が同じものになり、最後には自分の肉体感まで失われたこと、そして何より悪いことにはこれらの種々の混乱がその微細(びさい)な点から全体にいたるまでいちいち明瞭きわまること、それはかつて健康であったときに感じていた明瞭さとは全然性質を異にした、そいつに見舞われるといきなり叫び声を上げずにはいられないような、そんな明瞭さであった。
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結婚
 妻のお玉にしても、どこに妻らしいたのしみがあつたらうか。自分が遊び盛りの若いうちは運びの留守番、医者になつて流行(はや)るうちは客の取次、薬の調合、それからやつと家にゐるやうになると、病人になつた夫の介抱だ。その上七十六まで永生きされた自分の養母を引受けて面倒は見る。まるでお玉は自分の家へ女中に来たやうな女だつた。自分も六十に手が届くやうになり、田舎(いなか)の閑居で退屈まぎれに、同棲(どうせい)三十年近くで、はじめて妻といふ女を見直して見るのであつた。それも、左の眼は悪くなつてしまつてゐたから、右の眼一つであつた。このときお玉はもう五十一歳だつた。もとから取立てるほどのきりやうもなかつたが、それが白髪(しらが)だらけになると、ただありきたりの老婆(ろうば)だつた。一体が、さういふふうな女でもあるし、京都生れで、辛抱強いのに生れの性といふ考へが、こつちの頭にあるものだから、ただかういふ風に苦労をするやうにできて来た女が老婆になつても、根よくことこと働いて居る家具のやうで、その点が、めづらしかつたのだ。この女に、女らしさなどあるとも思はないし、見つけ出すのはいや味な気がして、妻が枯木のやうな老婆になつて行くのを、却(かえっ)て珍重する気持だつた。だから自分が五十九歳、妻が五十一歳の寛政四年にまづ妻の母親が死に、すぐ自分の養母が死にして、何だか気合ひ抜けしたやうな形になつた妻のお玉が、髪をおろして尼の態(てい)になり度(た)いと申出たときに、早速それを許したのだつた。女臭いところの嫌ひな自分の傍にゐる女が一層枯木の姿になるのはさつぱりするからだつた。そのとき妻は、尼らしい名をつけて呉(く)れと頼むのですこし思案して『瑚(これん)』とつけてやつた。どういふわけだと妻が訊(き)くから、これこれと呼ぶのに便利がいいからだと冗談半分に教へてやると、あんまり手軽すぎると不満さうだつたが、強(し)ひてことわりもせず、やがてその名のつもりになつてゐた。
 尼の形になつてからのお玉が驚かれたのは、まるで気性の変つて仕舞(しま)つたことであつた。ぱつぱつと話はする。気の向くとき働くが、気の向かぬときはどこまでも不精(ぶしょう)をする。世間態(てい)などちつとも構(かま)はなくなつて、つづれをぶら下げた着物でも平気で外へ出る。そしてむやみに笑ふやうになつた。多病でよく寝込むが、それを見舞ふとあはあは笑ふ。かうなつて来ると、却(かえっ)て自分には彼女にいつくしみが出て来るのだ。いんぎんにまめに自分の面倒を見た若いときの妻の親切といふものは、一つも心に留(とどま)つて居ないのに、綻(ほころ)びて仕舞つたやうになつた彼女が、ただわけもなくときどき自分の眼を見入るその眼を見ると、結婚して以来はじめて了解仕合つたといふ感じがするのであつた。しかも彼女は、一向もうそんなことをうれしいとも思はない無意識の状態で、自分を眺めるのだつた。
 最初から、すこし、いける口の彼女であつたが、それからは遠慮もなく、金があれば酒を飲み出し、京都へ移つてからは、画描きの月渓など男の酒飲み友達と組になり、豆腐ぐらゐの肴(さかな)でわびた酒盛をしじゆうやつた。
 この女も尼になつてから七年目、自分が六十六歳、彼女が五十八歳のとき死んだ。
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 彼女に就いては死んだ後、まだ一つ意外な思ひをさせられた。
 彼女は自分の道楽を見習つて、すこしは歌めくもの、まれに短文などつづりもしたが、元来家事向きに出来て居る女の物真似、なに程の事ぞときめて、取り上げた事もなかつた。彼女も臆(おく)して自分には見せなかつた。ところが彼女が死に、彼女のすこしばかりの遺(のこ)しものの破れた被布(ひふ)、をさながたみの菊だたうなど取片づけてゐるうちに、ふと、糸でからめた文反古(ふみほうご)の一束を見つけ出した。読んで見ると、自分の放埒(ほうらつ)時代にしじゆう留守をさせられた彼女の、若き妻としての外出中の夫に対する心遣ひを、こまごまと打開けたものや、子の無い自分が長柄川閑居時代に、ふと愛した近隣のこどもに死なれ愁歎(しゅうたん)の世にも憐(あわ)れなありさまを述べたものなどであつた。書きぶりも自分のによく似た上、運ぶこころも自分へ向けてゐるものばかりであつた。あの虫のやうな女に、こんな纏綿(てんめん)たる気持が蟠(わだかま)つてゐたのか。自分のやうな枯木ともなま木ともわけの判らぬ男性にやつぱり情を運ばうとしてゐたのか。さう思ふといぢらしくなつて、その文反古の上に、不覚の涙さへこぼした。しかし、再三読返してゐるうちに、自分に対して姉ぶつた物言ひや、自分を恨(うら)まず、なんでも世の中の無常にかこつけて悟りすまさうとする貞女振りや、賢女振りが、目について来て、やつぱり彼女も世間並の女であつたかと、興が醒(さ)めたとは云ひながら、その意味からいつて、また憐れさが増し、兎(と)も角(かく)も人が編んで呉(く)れた自分の文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』の末に入れてやつた。
 秋成は、かういふ流浪(るろう)漂泊の生活の中に研鑽(けんさん)執筆してその著書は、等身の高さほどあるといはれてゐる。国文に関した研究もの、国史、支那稗史(しなはいし)から材料を採つた短篇小説、校釈、対論文、戯作、和歌、紀行文、随筆等、生涯の執筆は実に多岐(たき)に渉(わた)つてゐる。その著書は、煎茶道(せんちゃどう)の祖述、漢印の考証にまで及んでゐる。しかし、これ等(ら)の仕事は、気ままできれぎれで、物質生活を恵む筈(はず)なく、学才は人に脅威を与へ乍(なが)ら、生活はだんだん孤貧に陥つて行つた。
 養母と姑(しゅうとめ)が死んだ翌年の寛政五年、剃髪(ていはつ)した妻瑚を携へて京都へ上つたときは、養母の残りものなど売り払つて、金百七両持つてゐたといふがそれもまたたく間に無くなり、それから書店の頼む僅(わず)かばかりの古書の抜釈(ばっしゃく)ものかなにかをして、十両十五両の礼を取つて暮してゐたが、ずつと晩年は数奇(すき)者が依頼する秋成自著の中でも有名な雨月などの謄写(とうしゃ)をしてその報酬で乏(とぼ)しく暮して居た。しかし、それも眼がだんだん悪くなつて出来なくなり、彼自身も『胆大小心録』で率直(そっちょく)に述べてゐる通り、「麦くたり、やき米の湯のんだりして、をかしからぬ命を生きる――」状態になつた。
 妻の瑚尼が死んで、全く孤独のやもめの老人となつた秋成は、一時、弟子の羽倉信美(はぐらのぶよし)の家へ寄食してみたが窮屈で堪へられず、またよろぼひ出て不自由な独居生活に返つた。
 故郷なつかしく大阪に遊んだり静かな日下の正法寺へ籠(こも)つて眼を休ませてみたりしたが老境の慰めるすべもなかつた。年も丁度七十歳に達したので、前年棲(す)んで知り合ひの西福寺の和尚(おしょう)に頼んで生き葬(とむ)らひを出して貰(もら)ひ、墓も用意してしまつた。
 秋成はそのときのことを顧みて苦笑した。さすがの癇癖(かんぺき)おやぢも我(が)を折つたかと意外に人が集つて来た。恥をかかせてやつたので怒つて居るといふ噂(うわさ)の若い儒者まで機嫌よく挨拶(あいさつ)に来た。役に立たないやうなものをたくさん人が呉(く)れた。それ等(ら)の人々は自分をいたはつたり、力をつけたりする言葉を述べた。そして自分がしほらしく好意を悦(よろこ)び容れる様子を示すのを期待した。自分はしまつたと思つた。
 自分で自分を葬(ほうむ)る気持は、生涯何度も繰返したので、一向めづらしいことではない。今度こそ、すこし、それを大がかりに形式に現して気持を新(あらた)にするつもりでゐたものを、これではまるで、他人に自分を葬らせる機会を作つてやつたやうなもので、今更、取返しのつかぬ失敗のやうに思はれた。で、ふしよう、ぶしよう==有難う、まあ、これからこどもに返つた気で……といふと、その言葉に飛びついて==それが宜(よ)い、全くこれからは、何もかも忘れてこどもに生れ返りなさることですぞ。と自分と同年でありながら、髪が黒く、歯が落ちず、杖(つえ)いらず、眼自慢の老人が命令的に云つた。日頃病身の癖に、壮健な彼と同じやうに長命する秋成を腹でいまいましがつてゐる老人だつた。彼は彼に向つて日頃いたづらなる健康を罵(ののし)る秋成に、折もあらば一撃を与へようと機会を覗(うかが)つてゐたのだつた。彼の言葉は==この上、長生きをするなら、もちつと、おとなしくしろ。といふのも同じだつた。まはりで聞いて居た人々は手を拍(う)つて、さうだ、そのことそのこと、といつた。
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十二歳年下
 それから、知友の連中は牒(しめ)し合したやうに、自分をこども扱ひにし、真面目(まじめ)に相手にならなかつた。彼はその方が都合がよかつた。相手はこどもに返つた老人だといふ考への下に、愉快に自分の罵言(ばげん)も聴き、寛容も秋成に示せた。もう誰も、秋成に向つて真理に刺されて飛上る苦痛の表情も反抗する激怒の態度も見せて呉(く)れるものは無くなつた。垂れ幕のやうな、にやにやした笑ひだけが、自分の周囲を取巻いた。秋成は、的が無くなつて、空(むな)しい矢を射る自分の疲労に堪へられなくなつた。
 彼等はその上、自分に深切さへ見せ出して自分の文集を編み出した。誰にも、手をつけさせなかつた草稿を入れて置く机のわきの藤簍(つづら)かごを掻廻(かきまわ)したり、人のところから勝手に詠草(えいそう)を取り寄せたりして版に彫つた。家鴨(あひる)は醜くとも卵だけは食へると思つたのかも知れない。自分が何か註文をいひ出すと==こどもに返つたのを忘れては困る。遊んで遊んで。と肘(ひじ)ではねた。これらの草稿は、やつぱり、自分のかねての決心どほり、自分の柩(ひつぎ)と一しよに寺に納めて後世を待つべきものではなかつたかしらん。人に(も)ぎとられて育つたやうな冊子でも出来て見れば、可愛(かわ)ゆくないことはない。それだけにまた、人に勝手にされたいまいましい気持も、添ふが。
 夜も更け沈んだらしい。だみ声で耳の根に叩(たた)きつけるやうな南禅寺の鐘、すこし離れて追ひ迫る智恩院の鐘、遠くに並んできれいに澄む清水(きよみず)、長楽寺の鐘。寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろい檐(ひさし)の点滴の音が、をちこちで鳴き出した梟(ふくろう)の声の鳴き尻を叩(たた)いてゐる。雨ではない。靄(もや)だ。それが戸の隙間(すきま)から見えぬやうに忍び込んで行燈(あんどん)の紙をしめらしてゐる。湯鑵の水はすつかりなくなつて、ついでに火鉢の火の気も淡くなつてゐる。
 秋成は、尽きぬ思ひ出にすつかり焦立(いらだ)たさせられ、納(おさま)りかねる気持に引かへ、夜半過ぎて長閑(のどか)な淀(よど)みさへ示して来たあたりの闇の静けさに、舌打ちした。==なにが、この俺がこどもに帰つた翁(おきな)か。求めるこころも愛憎も、人に負けまい、勝負のこころも、みんな生殺(なまごろ)しのままで残されてゐるではないか。身体が、周囲が、もう、それをさせなくなつてしまつたまでだ。もしそれをさせるなら俺は右の手にも左にもちび筆を引握つて、この物恋ふこころ、説き伏せ度(た)い願ひを吐きに吐きつつ、しかも、未来永劫(えいごう)癒(いや)されぬ人の姿のままで、生き延びるつもりだ。それを、さうはさせない身体よ、周囲よ、汝等(なんじら)はみな人殺しだぞ。人殺し! 人殺し!。と秋成は、自分の身体に向け、あたりに向け、低いけれども太くて強い調子の声を吐きかけた。そして、今更、自分の老(おい)を憎んだ。
 かうなつたら、やぶれ、かぶれ、生きられるだけ生きてやらう。身体が足の先きから死に、手の先きから死にして行かうとも、最後に残つた肋骨(ろっこつ)一本へでも、生きた気込みは残して見せようぞ――。考へがここまで来ると彼は不思議な落着きが出て来た。
 暁方(あけがた)近くらしいぬくい朝ぼらけを告ぐるやうな鶏(とり)の声が、距離不明の辺から聞えて来た。彼はこの混濁した朝、茶を呑(の)むことにとぼけたやうな興味を感じ出した。彼はまた湯鑵に新しく水を入れて来て火鉢の火を盛んにした。湯の沸く間に、彼は彼の唯一の愛玩(あいがん)品の南蛮(なんばん)製の茶瓶(ちゃびん)を膝(ひざ)に取上げて畸形(きけい)の両手で花にでも触れるやうに、そつと撫(な)でた。五官の老耄(ろうもう)した中で、感覚が一番確かだつた。
 南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事敵(がたき)の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地(いくじ)なし奴等(めら)だ。
 十二歳年下で、六十歳の太田南畝(なんぽ)がまだ矍鑠(かくしゃく)としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣(じし)して居るこの悧恰(りこう)な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目(まじめ)な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜(くや)しい念は起さなかつた。
 茶瓶に湯が注がれて、名茶『一の森』の上(じょうろう)の媚(こ)びのやうな淡いいろ気のある香気が立ちのぼつた。彼は茶瓶をむづと掴(つか)んだ。茶瓶の口へ彼の尖(と)がつた内曲りの鼻を突込んだ。茶の産地の信楽(しがらき)の里の春のあけぼのの景色も彼の眼底に浮んだ。
 その翌、文化四年七十四歳の秋成は草稿五束を古井戸に捨てた。
 さうかと思ふと、その翌、文化五年には、人が、彼の書簡集『文反古』を編んで刊行するのを許して居る。そして、彼自身も、最も露骨な告白文である随筆集『胆大小心録』を完成して居る。
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 小母さん。それに、私には、三代目の家族が傍にあるのです。三代目の家族の一人なんです。有名な親をもち、有名な祖父、曽祖父をもち、貴族出の母親をもっているんです。その悲劇は、どうせ、このつづきにかきますから、今ははぶきましょう。私を死にいたらせる一つの原因
 小母さん。それに、私には、三代目の家族が傍にあるのです。三代目の家族の一人なんです。有名な親をもち、有名な祖父、曽祖父をもち、貴族出の母親をもっているんです。その悲劇は、どうせ、このつづきにかきますから、今ははぶきましょう。私を死にいたらせる一つの原因にでもなるんでしょうから。一番大きな原因と云えば、勿論、厭世でもなく、愛情の破局ですけれど。
 小母さん。今ちらと、小母さんと共にすごしたあのふんいきを思い出しました。いつもいつも花がありましたね。小母さんは花が好きな人。田中澄江さんという劇作家の人の作品には、必ずのように花が出てくるそうです。だけど、小母さんと花の方が、もっともっと近よったつながりがあるみたいだと思います。
 さて、もとへ戻して。
 小母さん。私は三人の人が私の心の中でメリーゴーランドのように、ぐるぐる私のまわりを舞い出しているのを、おだやかな気持で見てはいなかった。だけど、それは長くはなかった。私は新しく恋をした人に、すべて、私の心がひきずられてゆくようになったのです。青白き大佐とはよく会いました。だけど、まるで私はいつも他のことを考えてたようです。子供が生れたら、ピアニストにするんだなんて冗談を云いながら、私は、彼の子供なんか、生める筈はない。生みたいと思わない。と心の中で思ってました。だけど、気にかかることが一つあったのです。何故、彼が、すぐに結婚すると云わず、二十九年にしたかということです。ああ、その告白をきいた時、私は身ぶるいをした位です。このことは、世界中に私しきゃ、大佐と私しか知らないことなんだ。だから、やはり、ここに書けない。唯、一人の女性がからんでいる――私の知らない――ということだけをのべましょう。私はその話をきいて、彼が不幸だと思いました。そして、私のような罪深い女――その時すでに、私は、過去の人に対する罪悪感と、新しく恋をした人に対する罪悪感とで、苦しんだのですから、過去の人に一生あなたを愛すると思い、告白し、新しく恋をして彼の愛情にそむいたこと。それを、心の隅にのこされている過去の人へのやはりわずかな愛情を、新しい人へそむいてるみたいな気がして。――と一しょになって、慰め合うことが、いいのじゃないかとも思い直したりしたんです。そのちょっと前に、私が非常に愛しはじめた――その人のことを、鉄路のほとり、と呼びましょう。彼は高架の下のしめった空気がすきなんだから――その人、鉄路のほとり、とのある心の事件があるんです。異人街の道をあるき、別れる時に、彼の過去をきいたのです。勿論、すでに私の過去を彼は知っているんです。誰ということも。鉄路のほとりと、私の過去の人、かれを緑の島と呼びましょう。沖なわ節をよくきかせてくれたから――とは知り合いなんです。それはさておいて、彼の告白は痛く私の胸にささりました。というのは、どうして、キャタストロフがきたのかと尋ねたら、お互に嫌になったんだ、と彼はこたえたのです。そんなことあるでしょうか。そんな恋が存在するのだろうか。そして、その彼女、私はみたことがあるんですが、彼女と鉄路のほとりとは毎日のように顔をあわしているんです。平気でおそらく喋ることもするだろう。何てことでしょう。まるで不透明。まるで馴れ合いの恋なんだ。嫉妬深い私、だけど、私は嫉妬したりはしなかった。唯、いやなことをきいてしまったと思ったんです。本当のところ、私はすこし彼への愛情がへっちまったようでした。翌日会った時、あなたがわからなくなった。と私は云いました。恋って、もっと真剣なものである筈。
 そんな私の心の動きがあったため、青白き大佐に、ある感情――つまり一しょになっていいだろう――を持ったのです。
 小母さん。退屈? でも辛抱して下さい。私は書きつづけます。今、麻雀が終ったらしく、家族の人が、点棒のかん定を大きなこえで云い合ってます。
 私の心は穏やかではなかった。ざわついていて、神経がぴりぴりしてて、いつも空虚のようで、いや又反対に一ぱいにつまりすぎている心。恋愛のことの他に、仕事が出来ない。書けない。家庭のこと。そんなことも余計に神経をぴりぴりさせた原因にもなるでしょうが、とにかく一刻として落ちつきがなく、日常には、義務的な仕事が多く。というのは、私の芝居が上演されることになったんです。間近にせまっている。その芝居の音楽を作曲し、弟にトランペットをふかすこと、太鼓のアレンジ。切符のこと、税務署に文句をつけられたり。朝から五六本も電話がかかる。新聞のコントたのまれる。この二月に描いた、唐津での陶器がおくられ、その代金を書留で送ったところ、郵便局の手ちがいで、何度も念を押しにいったり、私は、実にオーヴァーワーク。疲れてるから、ますます神経が鋭敏になり、いらいらする。
 さて、舞台稽古の日になった。十二月の十二日。私は、太鼓をかりに、知人のところへ行き、太鼓をかりた。小母さんのところにも寄ったんだっけ。かすりの着物をきてた時よ。私の描いた帯しめて。御影の駅で、木綿の大きな風呂敷に太鼓をつつみ、それをもって、その時、私は、鉄路のほとりに会いたい気持で一ぱい、大事な仕事が山積のようにあるのにかかわらず、大阪へ行ったのです。よく行く喫茶店へゆきました。彼が居そうな気がしたんです。ドアを押しました。鉄路のほとりは、女の人と一しょに話をしてたんです。私は途端に、かあっとなった。今から考えると私は実にあわて者。だけど、すぐそうなるの。それがたとえ、彼の妹であろうとも。私は会釈をかろうじてした。知ってる喫茶店の女の子が、何その風呂敷? と私にきいた時、たいこ、とこたえる声が自分でかすれてるのを知りました。はなれたコンパートメントにこしかけて、私は煙草に火をつけて、胸の中でガタガタ鳴っているものを落ちつかせようと努力しました。しばらくして、――その間、私は鉄路のほとりの方を、ちっともみなかった――鉄路のほとりは私の傍へ来ました。五時に来るからまってて、と彼は云いました。私はうなずいた。だけど待つ気はなかったのです。ドアのきしむ音、二人の足音がもつれ合って出て行く。私は、コーヒーをのみ、気持をおちつかせました。私の次の行為、緑の島へ電話をしたのです。全く、衝動的に受話器をとりあげたのです。緑の島は居合せました。私はおいそがしいですか、とききました。暇だと云うのです。そして出かけて行くと云うんです。私は、居所を教えました。丁度、私の友人の作曲家――度々この人のことが出て来ますが――の仕事を頼む口実があったわけで、緑の島は、その仕事を一つ、持って来てくれたのです。私達は、自動車で別れた日以来、半月ぶりで会ったのです。穏やかに語らいました。主なことは音楽の話でした。それから、線の島の仕事のこと。次から次から、話はつきません。だけど小母さん、私達は、静かに話し合っているのですよ。お互いにお互いの心をほしいとは思わないんです。それは、もうすでにすぎた恋だったわけ。小母さん。やはり終っちまった恋でした。それでよかったんだ。私は、ほっとしたんだ。だから五時迄に彼が帰ることをねがった。やはり、私は、鉄路のほとりを待つ気になったのです。しかし。五時五分前。私は時間をきいた。喫茶店の女の子が、五時五分前をしらせてくれた。その時、緑の島が、のみに行こうと云ったのです。私は何てみにくい女でしょう。緑の島に対して、何らの感情をもたないままに、一しょに外へ出たのです。鉄路のほとりに名刺をかいて、勿論、緑の島には気づかれぬように。何てみにくい私の姿。帰りたくなったから帰るという、いやな言葉を名刺にかいて、濁ってきたない私。緑の島と私はのみにゆきました。そこでも、おだやかに喋ったもんです。ピアノがおいてあって、アルバイトの音楽学校出身だという女の人が、ショパンを弾いでるのをお互いに苦笑してきいていた。まずいショパンだったから。そして、子供の話をしたんです。青白き大佐も私も子供をピアニストにするって云っているのですと。しらじらしく。まるで、自分の心に存在しない問題を。平気で。私は、もう自分をうんとみにくくして、自分で苦しんだらいいんだと思ったのです。自分の心、感情と、自分の行動との、ずれがひどくなる一方。不均衡な不安定な、いやあな気持に自分をおいて、自分に対して、唾をはきかけ、自分に対して、あしげにして、何といういじめ方。
 小母さん。私はどうしてこれ程までに、自分を自分でみじめにしなきゃ済まされないのでしょう。私をみじめにしないで、と何度も鉄路のほとりに云いました。けれど、考えてみると、自分で自分をみじめにしているんです。
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小母さん、だけど、私は、駄目。一週間おいて、過去の人に会った。駅で小一時間、待った。もう冷くしよう。彼には、通り一ぺんの挨拶でわかれてしまえと思った。私は、だけど何てひどい女でしょう。あの夜程、自己嫌悪にみちたことはありません。私は、彼とのみながら、お喋
小母さん、だけど、私は、駄目。一週間おいて、過去の人に会った。駅で小一時間、待った。もう冷くしよう。彼には、通り一ぺんの挨拶でわかれてしまえと思った。私は、だけど何てひどい女でしょう。あの夜程、自己嫌悪にみちたことはありません。私は、彼とのみながら、お喋りしながら、又、自分の彼への愛をみとめてしまったのです。彼の本当の愛情を感じることが出来たんです。彼を私は誤解してたんです。彼はやっぱり、私を真実に愛してくれてました。現実とか、社会とか、そんなことをはなれて、愛し合うのだとお互い申し合せました。彼には子供が生れ、私は、その一人の、私にとって何かみえないつながりのあるその子供のことのために、彼の妻より一歩さがった、愛情をもちつづけはじめたんです。彼のことを悪く云い、そう思ってた私自身を、恥じました。大へんな罪悪感なんです。でも彼は私をとがめなかった。ゆるしてくれたのです。後悔しない。私は今幸せだ。私のその言葉に、彼は、喜んでくれたのです。二人で歩きました。小母さん。私達は、ある横道の、うすぐらい道のほとりにある、一部屋にはいりました。あなたの子供がほしい。私はさけんだのです。小母さん。私は真実それをねがった。だけど小母さん。私は、新しく愛した人の存在が、私のすぐ傍によこたわっていることに気づきました。別れるなんぞ云わない。又会う日までと云って、自動車から降りて行った過去のその人の後姿を見送って、一人になった時、私は、恐しさで一ぱいでした。私は家へかえり、いそいでレター・ペーパーを、ペンをとり、新しく愛しているその人に、手紙をかきました。(いや、その翌日だったかも知れませんが)罪深い女だと。昔愛した人に会ったのだと。そして過去の彼を愛しているんだけど、その過去は、たちきられたものじゃない。現在につながる過去なんだ。手紙が彼のところへついた翌日だったか、その日か、彼は夜おそく、神戸へ来ました。そして、過去愛してたというのか、今なおかを私に問うたのです。私は、過去だと云ったんだ。過去はたしか。だけど、過去は現在につながっているのだ。やはり今も愛しているんだ、って云えなかった。別の感情で二人の人を愛しているなど、それは、実に卑劣ないいわけです。だけど、実際私は、そうだった。それは夏の太陽みたいな、輝かしい猛烈な愛情を求める気持と、静かないこいのような沈んだ青色のような愛情を求める気持と。だから私は、もう過去の人へ行動はしないつもりでした。
 小母さん。私は頭の中が整理出来ない。いや心の中を整理することが出来ない。だから、ゆっくり思い起して、事実をかいてゆきながら、ぬけているところもあるだろうと思います。だけど、私は小説書いてるのじゃない。正直な告白を、真実を綴っているのです。だから、ここにかかれたことは、すべて、まちがいなしに本当なんだ。本当の私の苦しみで本当の私の自責なんです。
 小母さん。順序よくかくことが出来ないし、字も荒れて来た。だけど私、止めないで書いている。
 小母さん。それから、未だ一人の男性が私の附近にいるのです。彼を、青白き大佐とよびましょう。そのいわくは後にして。彼とは、夏すぎに妙なお見合いをしたんです。病気がよくなり、だけど私にとって希望も何もなく、誰でもいいから結婚するわ、と洩らした言葉を、青白き大佐の兄貴がきいて、私と大佐を私の部屋で会わしめたんです。ところが、お互いに好きになれなかったため、何のはじらいもなく、ずけずけ云い合ったもんです。彼が作曲をしてたんだということをきいて、音楽のことなど、まるで色気もなく喋ったもんです。その後、家にレコードをききに来たり、お茶をのみに行ったりしましたが、私は、彼の才能に、びっくりしながら、好感さえも抱いてませんでした。今、商売人の青白き大佐が、音楽の話などして、郷愁ではすまされぬ心の動きを、私はにやにや笑って面白半分にみてました。私がひきあわせた作曲家のクヮルテットの楽譜をみて、彼はおそらく、気持がおだやかじゃなかったことでしょう。喫茶店や何かで、いい音色に出くわすと、彼は堪らなく落ちつきなく、耳にはいる音の流れを追っているのです。私は意地悪く、その表情を観察したりしてました。
 小母さん。青白き大佐は、私を嫌いだ、嫌いだといってたのです。だけど、よく私を訪問しました。そのうち、私は青白き大佐と結婚したら、幸せになれそうな気がしたのです。彼は、とても大人だから、私が何を云おうと、何をしようと、眺めてくれるんです。私は神経をつかわなくて済むし、気楽だろうと思ったのです。そして、私と青白き大佐は、遂に婚約しました。それがふるってるんです。契約書をとりかわしました。拇印を押しました。だけど、私は実際のところ、真剣に結婚を考えてはいなかったのです。だから、買主が大佐、売主が私。売物は売主と同一のもの、但し、新品同様、履行は、昭和二十九年。さらい年です。など二人でとりきめながら、至極かんたんに契約したわけなんです。彼の気持などは、私、ちっとも考えないし、想像もしなかった。それが、十一月十七、八日のことです。人に若し喋ればこの契約は放棄になるなどという条件まで、すみでしたためたものです。ところが、私は、まるで冗談半分だったので、四五人の人に、結婚するんだと云いました。しかも、来年しますなどと。何故、大佐が結婚を昭和二十九年にしたかは、後ほどにまわします。だから私の過去の人に会った時、結婚するんだ。その人はかつて作曲家で、など云ったのは、まんざらでたらめでもなかったわけです。大佐は、私が、新しく恋をしていることも過去の人をまだ愛し、そのために苦しんでいることも知っているんです。京都での一夜の時も、大佐は傍に居ました。だけど私は平気でした。何故なら、大佐とは、お互いに惚れぬこと、などという条件があったのですから。それに私は、恋愛を結婚までもって行くことに反対してたんです。私のような、過激な、情熱のかたまりみたいな女は、恋愛して、そのまま結婚することは、とても出来ない。恋愛を生活に結びつけられないんですの。
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